いらっしゃいませ。貴方のお出でをお待ちしておりました。

作木村は妖怪伝説がありますので、あっちこっち巡ってお楽しみください。

作木には何と言っても「後鳥羽院御陵」が遺されています。

隠岐の島に流されたはずの後鳥羽上皇のお墓が、何故作木村にあるのでしょうか?

作木は江の川を航行した高瀬舟など川文化で栄えた村、そんな素敵な文化も併せて堪能しください。

 

 

 

                稲生武太夫と三井権八が繰り広げる妖怪探索です

 

 

作木村妖界MAP

 

 

 

 稲生平太郎改め武太夫でございます 

 

 私が生まれたのは享保17年(1732)です。16歳になるとその才能を認められ、安芸の國と備後の國を治めていた浅野藩の七代藩主吉長公に召し抱えられました。

 

 三次城下の太歳町に住まいしておりましたが、隣家に住む三井権八という布野村出身の元相撲取りと意気投合、権八親方指導のもとで近隣の君田村や作木村などから通って来る力自慢の若者たちと相撲の稽古に励んだものでございます。

 

 ある夏の日の夜、権八と比熊山の山頂にある「たたら石」の前で百物語を語り妖怪が出てくるのを待ちました。その後三十日間に亘り屋敷に妖怪が現れ、権八とともにそれを退散させたことは「稲生物怪録」に記した通りでございます。

 

 その活躍ぶりを主君吉長公に褒められ、百石の禄高で士分に取り立てられました。その時二十五歳、名も稲生武太夫と改めました。手前みそながら武技胆力は益々盛んで、武者修行の旅に出かけることに致しました。 

 

 先に郷里に足を運んでいた権八を布野村に訪ねると、悪業三昧の大蛇を退治するための加勢とやら作木村に出かけており後を追いました。権八と再会を果たし、程原入道が大蛇を討ち取るのを見届けた後、里へ下る途中天狗に出くわしたり、東光坊というお寺で狐の「化けの皮」事件にも遭遇しました。江の川に沿うた港と呼ばれる集落の辺りで日が暮れ、二人が川辺に繋がれた高瀬舟に横たわり仮眠をむさぼっていた時突然現れたのは、隠岐の島に流された後鳥羽上皇の怨霊でした。

 

女亀山の雨乞い 

 

 あっしは三井権八でやんす。程原入道が三国山で大蛇退治をすると言うんで加勢に出かけたやんしたが、途中で女亀山に向けて作木の村人が登っていくのに出会うてついて行きやんした。何をしに行くんかと聞いたら、水飢饉でお天とう様に「どうぞ雨を降らせてくだせえ」と頼んだが効き目がのうて、とうとう庄屋の娘のヨミさんが生贄になることに決まったそうでやんす。

 

「皆の衆が助かるんなら、喜んで生贄になりましょう」とヨミさんは山に登りお社にお参りして「私の命を捧げますけえどうぞ雨を降らせてつかあさい」とお願いし、たらいの深さほどの浅い池に飛び込んだげな。何と不思議にもヨミさんの姿はあっという間に見えんようになって、皆の衆がたまげとる間に空が暗うなりやして池から飛び出した女亀さんが天に登ると雨がザアーザアー降り出したんでやんす

 えっ「布野の衆のように皆の衆は裸になって踊らんかったんか?」ですって。

 

 もちろん男衆は下帯を外して、女子衆は腰巻を取り、池の中に投げ込んだんでやんす。そして池の周りで火を焚いて真っ裸になって踊ったんでさあ。ヨミさんの願いやら、裸踊りの一生懸命さが天に届たのか、女亀さんが現れ雨を降らせたんでやんしょう。 

 

 あっしが山を下ったところで程原入道と出会いやして三国山までやって来ましたら「おおい、権八殿じゃござらんか」 

という大きな声が聞こえまして、振り向いたら平太郎さんの姿が見えやんした。聞けば元服して武太夫と名を改めたそうでやんす。

 

 

三井権八と稲生武太夫が出会ったところで、

           次は作木村国境三国山へと向かいます